神奈川県氷雪販売業生活衛生同業組合

近代の横浜における天然氷・製氷の足跡

わが国最初の氷水店

わが国最初の氷水店が開かれたのは、明治2年(1869)6月のことで、太田久好編『横 浜沿革誌』(石井光太郎校訂 昭和45年刊 有隣堂)によれば「馬車道通常盤町五丁目に 於て町田房造なるもの氷水店を開業す、当時は外国人稀に立寄、氷、又はアイスクリーム を飲用す、本邦人は之を縦覧するのみ、店主為めに当初の目的を失し、大に損耗す、尚、 翌年四月、伊勢山皇太神宮大祭に際し、再び開業せしに頗る繁昌を極め、因て前年の失敗 を恢復せりと、爾来、陸続来客ありて、恰も専売権を得たる如く繁栄を極めたり、之を氷 水店の嚆矢とす」と記している。

馬車道での開業は、たまに外国人が立寄り氷・アイスクリームを食べるぐらいで、日本 人は見ているだけであった。経営は失敗したが、翌年4月に伊勢山皇太神宮大祭で出店し たところ続々とお客が来て大繁昌となった。

氷売りの光景は、横浜開港後の維新期において新しい光景であったのであろう。神奈川 青木町の浄土宗三寶寺の住職で幕末期を代表した和歌人のひとりであった大熊弁玉は、「氷 売ひらけゆく世のたまものと商人の市にも室の氷うるらむ」と詠んでいる。


明治期の横浜での氷問屋

明治期の横浜における氷問屋は、山崎末五郎問屋(真砂町二丁目 三十二)と飯田快三問屋(真砂町三丁目四十八)の二軒が知られて いる(『横浜沿革誌』)。

飯田快三(助太夫)は、高座郡大和村深見の真壁以修の三男とし て生まれ、明治8年に橘樹郡北綱島村の飯田助太夫広配の養子と なった。村会議員、県会議員、初代大綱村長などの議員等を歴任し たのをはじめ橘樹郡教育会長、橘樹郡農会副会長、鶴見川改修期成 同盟会長、橘樹茶業組合長、郡蚕糸業組合長、県製氷組合長、横浜 氷業組合長も歴任し地方殖産興業の発展に大きな功績を残した。

※明治20年1月
「三ッ澤製氷押尾口入荷帳 真砂町 飯田氷室」(筆者所蔵)

この地域の殖産興業の発展に尽力したのが養父の飯田助すけ太だ 夫ゆう廣ひろ配とも(1813.95)であった。 廣配は都筑郡吉田村(現・港北区)の旧家・相澤宇兵衛の次男として文化10年に生まれた。 幼名を丑五郎といった。天保6年(1835)に養子となり飯田家第10代を継ぎ、北綱島村 名主、代官江川太郎左衛門のもとで農兵隊を組織し、その隊長を務めた。特に廣配が取り 組んだのが天然氷の製造であった。『飯田家三代の俤』の中で「就中幕末明治期にあって 製氷業に着眼したことはその達識寧ろ驚くべきものあり、加ふるにその製法を刻苦研究し て製氷業今日の基礎たらしめたことは特筆すべきである。」と位置づけている。廣配は都 筑郡や橘樹郡の農家が生産した天然氷を横浜区真砂町三丁目の飯田氷室に保存して、開港 場の横浜や横須賀などに販売をした。鶴見川中流域における製氷業の基礎を築くとともに、 その発展に尽力した人物であった。いわゆる明治期の地方名望家のひとりである。


近代の横浜における製氷と天然氷

幕末期から天然氷と取り組んだのが横浜元町一丁目の中川嘉兵衛であった。彼は元治元 年(1864)11月に「氷売込」を出願し、許可が得られたことにより、甲州鰍ケ澤や冨士 山麓からの氷の切り出しや南多摩郡是政村或は八王子近辺から氷を集めたがことごとく失 敗した。明治元年(1868)に元町一丁目に新たに「四間に八間の氷室極入念に造立」した。 その後も辛酸の連続を経て函館五稜郭の氷切り出しに成功した。この函館氷は全国にその 名が轟き、これにより明治11年には各地に天然氷を製造する者が多く現れたという(『明 治工業史 9 機械編地学編』)。


みなとみらい線「元町・中華街」駅を出た右はしに「機械製氷発祥の地」の碑がたって いる。この地は明治12年(1879)に日本最初の機械製氷会社であるジャパン・アイス・ カンパニー」があった場所で、イギリス人のアルパート・ウォートルスという人が製造し ていた。2年後には、この会社はオランダ人のストルネブリンクに経営権が移転し「横浜 アイス・ワークス」と会社名も変更となり長く製造が行われていた。その後帝国冷蔵株式 会社に買収された。関東大震災で工場は、倒壊したが翌年には再建され、平成11年まで 株式会社神奈川日冷株式会社山手工場として稼動していた。ストルネブリンクは、横浜で 亡くなり山手の外人墓地に眠っている。

明治後期になると天然氷にかわって会社組織で機械製氷がさらに行われるようになった。 事例をあげてみると、明治41年7月には横浜製氷株式会社(根岸町)が創業を始めた。こ の会社は馬力の電動機設備で製氷・冷蔵を業とした。横浜冷蔵庫(宮川町二丁目三十番地) は、東京に本社をもつ帝国冷蔵株式会社で、明治42年8月に創業し製氷業を行っていた。 大正5年には合資会社横浜氷業同志会(萬代町二丁目三十五番地)が氷販売を始めた。 一方、蓬莱町二丁目には横浜氷業同志会と萬代町と同名の会社があった、目的は同じく 氷販売であった。大正時代に横浜市内での製氷会社で最も製造高が高かったのはジャパン 製氷、次いで谷戸坂の製氷会社、宮川町の帝国製氷、根岸の横浜製氷で、これらの製氷会 社が市内の主な製氷を製造していた。この時代には製氷が夏季だけでなく、年間を通じて 需要が多くなった。氷の需要先は主に飲食店(会席、料理、西洋料理、蒲焼、鳥料理、中 華料理、蕎麦、牛肉、豆腐料理など)、市場、工場、牛肉店、魚介類販売店などが主なも のであった(『横浜社会辞彙』)。一方、街頭の氷水屋で飲料に使う氷は、料理店等で扱う 約十分の一にすぎなかったという。

大正6年頃の天然氷の製造も盛んであった。神奈川県下の製造地とし名高かったのは、 現在の都筑区の都田地区の佐江戸・東方・大熊、中川地区の茅ケ崎、勝田、山田、港北区 の新羽、新吉田や綱島・篠原・大豆戸・菊名・樽・大曽根などや神奈川区の三ツ沢界隈な どで、寒中に製造が行われていた。ただ天候に左右されて毎年の製造高が安定していなかっ た。一方、かつて函館・諏訪・軽井沢・赤城・鹿沼方面の製氷場からの入荷もあったが、 近年東京の需要が延び横浜への入荷が急に減少してしまったという。これら市内の製氷工 場と天然氷は、市内のみならず県下の横須賀・浦賀・三崎・鎌倉・藤沢・茅ヶ崎・平塚方 面や東京羽田、八王子方面にまで販売されていた。夏季の飲用としての氷の需要に到底追 いつかなかったともいう。


天然氷の衛生検査

これら天然氷は、食品衛生上の危害度も高かったことから明治初期から神奈川県は「製 氷取締規則」(明治11年11月4日制定)を定め天然氷の安全確保を図っ ていた。すなわち製氷業を営む者は11月から翌年9月までの一期のみの 許可を受けること、製氷場所の用水の検査、製造所の構造、県衛生課員 が製造所の監視を行う旨などを規定している。

さらに明治33年には神奈川県は、さらに細かく製造所や貯蔵所の構造・設備の基準を定め規制を 厳しくしている。当時流行していた赤痢等の感染症予防のためなのであ ろう。明治21年、22年の『神奈川県公報』によると、12月には衛生課員 が県下橘樹・都筑・南多摩・西多摩・高座・足柄下の各郡に出張し製氷 場の位置、構造等を検査のため訪れている記録がみえる。衛生課員によ る検査は、青木規誠がほとんどひとりで県内を巡回していた様子がうか がえる。

※写真は神奈川県衛生課職員青木規誠が衛生検査巡回について
飯田快三にあてたときの 封筒(筆者蔵)